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絶望

 23歳の誕生日の翌日の夜、数時間前に家族や友人に祝福された人間にはあまり似つかわしくない、明るくない考えを抱いた。

 

 aikoの歌に時々ある「実存」という感じが、わたしはとても好きだ。aiko『泡のような愛だった』収録「あなたを連れて」の次に「距離」が流れ始めた時にやってくる、心地よくて穏やかな絶望感。あの二曲を続けて聴くのがたまらなく好きだ。「距離」の快い感じは、低いところに留まっている安心感と、上がってはゆけない悲しさから来ている。

 

 わたしがいま進んでいる先は坂の一番低いところ、絶望であるような気がする。あたたかくて、だんだんと冷えていくような感じはしない。

 

 わたしがいる世界、これから生きていく世界は、きれいで、いいものがたくさんあるまともな世界だと思っていた。そして自分のダメなところは、そこには住めなさそうな感じだった。感動する気持ちやその対象、美しいものと、ダメな自分は共存していなかった。ただ最近、わたしは自分で設定していたほどすごい人間ではないと気づいてきた。自分はこれから何者かに、何かになる「可能態」なのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。「別に何でもないけど生きてはいる」という、おそらく世界のほとんどの人がいるのであろうサイドの人間。わたしはもうすでにそうなのだし、多少好きなものや生きがいのようなものを見出したとして、だからと言って何者かになるというわけではないのだろう。

 恐ろしいことを思い出した。大学一年の頃、根拠はなかったが実はこのことを予感していた。

「自分はまだ何にもなっていない。形にする前の粘土みたいだ。でももしかしたら、まだ何にもなっていないというより、この先も何にもなれないのではないか・・・?」

 わたしはこのようなことを考えていたのだ。しかしきっとその考えが怖くてすぐに頭から廃棄したのだ。あれ以来、わたしは何回も挫折して泣いてきた。折れ曲がって、上を向く気になどならない、あの、部屋の隅にずっといたいような心境を、3年ほど持ち続けた。その結果、漠然と持っていた「私って大したことないのかな」という考えは、数々の根拠を集めて「わたしは全然すごくなくて、この先もこのまま進む可能性が高い」という風に変わった。中学・高校という、自分はすごいんじゃないかと簡単に思ってしまうあの狭い空間を気持ち悪く思った。

 「わたし」だなんて、情けなくて子どもっぽくてフワフワしていて気持ち悪い一人称表記を、今日はあっさり使う気になった。いままで「私」と書いてきたけど、この肉体とその周りにあるぶよぶよした精神は、「私」ほどしっかりしていないんだなと分かった。 

 暗いけど後ろから生温かい光が差しているくらいの暗さの中で、おそらく真っ黒なのであろうコーヒーを飲んでいた。わたしがうちの猫に陰を与えていた。いつもよりも胸のあたりの縞模様がくっきりと見えた。トラのように見えた。他の猫と入れ替わっていたのかもしれない。顔つきや動きはいつものわたしの猫であったが、頭の中が一瞬すこしぐちゃぐちゃになった。最後のほう猫は、恍惚とした表情をした。コーヒーは、「えぐみ」のようなものが全くと言っていいほどなくて、「透き通った感」と「ほどよい匂い」を、私は飲んでいた。「おいしい。」という言葉がまずはじめに浮かんだが、だんだん、味(本体?)がない、「雰囲気だけの女」みたいな感じかなと思い始めた。それはまったく悪い意味ではない。何回でも飲みたいと思った。好きな味、楽になる味だ。味がないと言った直後だけど。それにカフェインレスだった。苦くも酸っぱくもない。別に豆から挽いたりもしない。ドリップだからお湯を注ぐだけ。たまたま友だちが飲んで、おいしいと思ったからわたしにもくれた。たまたま予定が合って、その子がわたしなんかと会う気になったから、わたしの手元にやってきたコーヒー。家や外で時々飲むしっかりした太い味のコーヒーは、「香りがいい」とか「深みがある」とかそれらしいことを言って、おいしいと思い込んでいたのか。コーヒーとは周りにある「感じ」を飲むものなのかな。多分関係ないけど、わたしは中身がなく形式が少しあるだけの女だなと思う。どうしてかっこつけてばかりなのだろう

 

 「あぁ今日は夢じゃなかった」「あぁこの世界に墜ちた」「闇の中で闇を消して不安は止まり離れられないキスの息」(前出アルバム収録「キスの息」)

 

 この先ダメな自分を世界の中に存在させていかなくてはと思う。というよりダメな自分がいる世界のほうを、自分が生きている世界だと思えるようになるといいなー。大人になるのに必要なもののひとつだという気がする。